LGBTはPC棒をいつ使うのが効果的なのか考えてみよう

トランプ氏が次期大統領に決まって以来、ポリティカル・コレクトネスという言葉を頻繁に目にし、耳にすることが増えました。
ご存知の方も多いでしょうが、もう一度この言葉の意味を確認しましょう。

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
引用元:Wikipedia

Political Correctnessを略して「PC」「ポリコレ」とも言われます。

そして、このポリティカル・コレクトネスに反すると思われる発言や行為などを批判することを
「PC棒を振り回す」
「PC棒で殴る(叩く)
などとTwitterでは表記されるようになりました。

セクシャル・マイノリティにとっては、差別・偏見と向き合わざるをえない局面は嫌でもあるわけで、「PC棒」を使って戦うべき時は確実にあると思うのです。
それは、どういう時なのか、そして、いつ使えば効果的なのか、ということを考えてみようと思います。

ポリティカル・コレクトネス疲れって本当か?

「ポリコレ疲れ」という言葉を、トランプ氏が次期大統領に決まった2016年11月9日以来、耳にすることが増えましたね。
黒人であるオバマ氏が大統領であったこの8年間、差別的な扱いを受け続けていたアメリカのマイノリティは、差別を解消される様々な施策の恩恵にあずかってきました。同じマイノリティとしては、とても素晴らしいことだと思います。
しかし、非マイノリティである白人の一部にとっては耐え難い年月だったようです。
有色人種、セクシャル・マイノリティ、移民、キリスト教以外の宗教の信者など、
「俺たち(キリスト教信者のストレートな白人)には差別する権利がある」
くらいに思っていたマイノリティが力をつけてきて、バッシングやヘイトクライムはもちろんのこと、以前のような差別的なジョークすら言いづらくなってきた。
そんな白人層の不満を掬い取ったのがトランプ氏だと言われています。
トランプ氏が当選した直後から頻発しているマイノリティへのバッシング、ヘイトクライムを知ると、確かにその説は一理あると思わざるをえません。(←もちろんそれだけがトランプ氏が当選した理由ではないという分析は、様々なメディアによってなされています)

■参考記事
トランプ氏勝利後、数え切れないほどのヘイトクライムが全米に広がる(ハフィントンポスト)
【まとめ速報】トランプ勝利で全米のLGBTに起きたこと( Letibee LIFE)

マイノリティ側からすれば、
「ポリコレ疲れ? はぁ? こっちはもっと酷い差別を受け続けてるんだよ!」
と怒鳴りつけたくもなります。

しかし、既得権益だと思い込んでいたもの(もちろんマイノリティを差別してもいいなどという権益はありえません)を奪われたと感じる側が抱く窮屈感、不満、ストレスは、差別される側であるマイノリティが想像する以上に大きいようです。

さて、ここからは誤解される可能性もあるよなあと思いながら、言葉は選びつつも、曲解されないことを祈りながら考えていることを書きますね。何せ、ナーバスな問題ですから。

 

PC棒を振り回さなければイカン時とは

ここから書くのは、あくまで僕の考えです。
異論をお持ちになる方は当然いらっしゃるでしょうし、異論もご紹介していきたいので、ぜひご意見はコメント欄にご記入いただいてお送りいただけると嬉しいです。

僕が「PC棒」でぶん殴ってやらんとイカンと思うのは大きく分けて下記の2つです。

・政治家、役人、著名人が公共の場(ネット上の発信も含む)で無理解に基づく差別的発言をした時
・TV、新聞、雑誌などのマスコミで差別的な報道がなされたり、マイノリティを笑いの対象として扱った時

だから下記のような事例に関しては、PC棒を振り回して批判し、なぜ批判されているのかを分からせなければならないと思うのです。

鶴指眞澄・海老名市議がTwitterで差別発言「同性愛者は異常動物」(ハフィントンポスト)
新潟・三条市市議が予算審議で「おかまに支援いらぬ」(NAVERまとめ)

今後も、こういう政治家による事例や、ポリティカル・コレクトネスという概念も知らないような製作者によって作られるTV番組などでマイノリティを笑いの対象と扱ったものを見つけたら、PC棒をブンブン振り回して批判しようと考えています。

「そんなこと一々目くじら立てなくてもいいじゃない」
と考えるマイノリティの方もいらっしゃるのは分かっています。
僕自身も、今さら政治家が何を言おうが、笑いの対象にされようが、自分は傷つかないくらいのふてぶてしさは持ち合わせています。

でも、自分のセクシャリティをきちんと受け入れきれていない若いマイノリティは絶対傷つくと思うのです。自分が若かった頃と同じように。

だからこそ、ふてぶてしい大人がPC棒を振り回して批判しなければならないと考えるのです。

このことは今年前半にLetibee LIFEに書いたのでご興味ある方はご一読ください。

頻発する性的マイノリティ差別発言を見逃してはならない理由(Letibee LIFE)

 

ポリコレ疲れと思わせると逆効果ではないのか?

PC棒を振り回して闘わねばならない局面があるのは事実なのですが、トランプ氏が次期大統領に決まった日から全米で起きている「ポリコレ疲れ」の反動的なマイノリティへのバッシング、ヘイトクライムの現状を見ていると、正論であるポリティカル・コレクトネスを前面に押し出しすぎた場合の弊害も考える必要があると感じています。

窮鼠猫を噛む(きゅうそ、ねこをかむ)という諺が示すように、逃げ場なく追い詰めていくと(本来は弱い立場の)ネズミですら(強い立場の)猫に噛み付いて反撃する、のです。
ましてや、PC棒で叩く相手はマイノリティよりも強い側のマジョリティです。本来強い側が不当に(←不当ではないのだが、追い詰められた側はそう感じるはず)追い詰められたというストレスが爆発した時が恐ろしいのです。
なぜなら、その怒りの矛先は、より弱い相手に向くと考えるからです。
その矛先とは、体力も腕力もありそうなゲイではなく、また知的で理論家で仲間とともに闘えるアクティビストでもなく、大きな声を出す勇気がなく孤立していて非力なセクシャル・マイノリティに向かうのは必然だと思われます。

だからこそ、本来は正論であるポリティカル・コレクトネスを掲げて批判をするべき局面を見極める必要も生じてきているのではないかと考えるのです。

もちろん、差別的な発言などが一切なくなることが理想ではあります。それを目指すことを否定はしません。僕も、そうなってほしいと願う一人だからです。

しかし、どんなことでも一足飛びに理想に到達することはありえません。一歩一歩理想に近づいていくしかないのは現実ではないでしょうか?

マジョリティ側にいる無理解な人々に、
「セクシャル・マイノリティについて何も言えないのかよ!」
というような不満を抱かせないことが、今はまだ必要だと考えています。

千葉・熊谷市長の発言はPC棒で叩くべきなの?

「PC棒」を振り回すべきか否か、という問題に関してですが、直近では千葉・熊谷市長のツイートが最たる例だと考えています。

この件、ご存じない方は下記記事にまず目を通してください。

同性カップル結婚介護休暇の熊谷千葉市長ツイートが凄すぎる

もう一度、熊谷市長の一連のツイートをご紹介します。

このツイートに対して、予想通りの方向から予想通りの批判ツイートが書き込まれるや、それに対する熊谷市長のツイートが秀逸だと評判になっています。

この発表に対して、同性カップルを認める=少子化 という、よく見かけるワンパターンな批判が書き込まれました。

それに対する熊谷市長の反論です。

これに続くツイートを問題視してPC棒を振り回される結果となりました。

市長ともあろう人がセクシャル・マイノリティに対して「生理的にダメ」と言っていいのか!
という「PC棒」でタコ殴りにする批判がTwitterのタイムラインに溢れ、一部で炎上状態となりました。

どんな感じで炎上したのかは、下記まとめ記事をご参照ください。

LGBT新制度が好意的に受け止められたはずが、LGBT嫌悪許容発言により逆に猛批判を浴びた千葉市の熊谷俊人市長

市長のツイートを批判する人は、

単純に「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」と言えば良いと思いますし、それは別に責められるべきものではありません。

この部分を問題視しています。
しかし、冷静に一連のツイートを見れば、このツイートは一つ前の「同性カップル容認=少子化」という批判に対する反論につながっていることが理解できるはずです。
つまり、このツイートの冒頭の

性的多様性についてもっともらしい理屈(多くは整合性が取れていません)を用いるのではなく、

の意味を考えるべきなのです。

自分の中にあるマイノリティへの差別意識を「整合性が取れていないもっともらしい理屈」(同性婚=少子化が典型的な例)を用いて、さも正論を述べているかのような姿勢ではなく、「単純に「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」と言えば良い」と言っているのです。

つまり、これを少々荒っぽい言葉で翻訳するならば

一見正論風の理論武装で自分の差別意識を隠さずに、堂々と差別意識を表明しやがれ、この卑怯者!

ということだと思います。

自分の中にある差別意識を表明すること自体は「別に責められるべきもの」ではないでしょう。
ただし、そんな差別意識を堂々と表明するような輩が周囲の人から尊敬されるはずもないことは想像に難くないですよね。

僕は最初にこのツイートを読んだ時に、こう感じたので

同性カップル結婚介護休暇の熊谷千葉市長ツイートが凄すぎる

の記事で絶賛しました。

熊谷市長自身がセクシャル・マイノリティに対して差別意識を持っているわけではないということは、一連のツイートからよく分かります。
しかも、セクシャル・マイノリティにとって明らかにプラスになる施策を始めようとされているのです。
この熊谷市長のツイートの、一部分だけにフォーカスしPC棒を振り回して批判するのは、正しいことでしょうか?

僕は、冷静に全体の文脈を読み理解してから、PC棒を振り回すべきか否かの判断をすることが必要だと考えます。

ちなみに、後日、熊谷市長はこのようなツイートをしています。

これぞ、まさに正論であるポリティカル・コレクトネスを前面に押し出して差別意識を持っている人を追い詰めない、という考えの分かりやすい実例ではないでしょうか。

 

この問題に関しては、色々なお考えの方がいらっしゃると思います。
異論もご紹介したいと考えていますので、ぜひ、コメントを残していただけると嬉しいです。

 

About itaru 24 Articles
元・月刊Gーmen編集長。LGBTQI(セクシャル・マイノリティ)に関わる様々な事柄を取材・分析して、誰でも分かりやすい平易な言葉でお伝えしていくことを使命と感じています。

1 Comment

  1. 興味深く読ませていただきました。
    論理にいくつか問題があるように感じますが、特に問題なのは、根拠なくポリティカル・コレクトネスが正論であることを前提としていることです。
    この前提が崩れた場合、主張されていることの大部分に影響がでます。
    何を根拠にポリティカル・コレクトネスが正論であるとしているのでしょうか?

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